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JR 桜島線

安治川散歩

- 心の情景を呼び起こす -

ご注意 : 画像が 少し重いです


2002/02/09 追加: 旧大阪港界隈 その2
府師範学校の碑 / 府庁跡横の住宅 / ちょっと余談 など

===(仕切り線)===

- 中央市場は かつての大阪港 -
福島区の対岸を歩く

西九条駅
西九条駅

右側 「阪神」で、左側が 「JR」環状線の西九条駅です。 阪神 西九条駅は、今にも環状線を跨ぎそうな勢いですね。 戦後すぐに上本町( 近鉄 )へ、乗り入れる予定があったそうです。 この計画が水に流れてから ずっとこの状態でしたが、ようやく難波への延長が具体化したようです。 阪神の延びる方向には「源兵衛渡し」があり、その先は西区 九条です。 大阪ドームの近くを通って、近鉄難波へつながるようです。 周辺は用地買収も進められています。

安治川散歩地図
自転車なら 30 分もあれば周ってしまいます
安治川散歩地図
写真は夕方から出かけたので、後半は薄暗くなってしまいました (陳謝)

源兵衛渡し

道路と同じで無料。 昔は左側の大きなエレベータで自動車も通した。
源兵衛渡し 源兵衛渡し 源兵衛渡し 源兵衛渡し

国津橋交差点
国津橋交差点
西区本田(ほんでん)

「げんぺぇ渡し」と 子供の頃から言っていましたが、少なくても戦後は 渡し舟ではありませんでした。 このようなビルで、エレベーターになっています。 安治川の このへんは、中央市場の上流側に架かる船津橋より下流には、橋がありません。 …いや、国道 43 号の 安治川大橋( 昭和 38 年 4 月完成 )が 架かっていますが、比較的最近です。 なんででしょうか。

古川跡の碑
古川跡の碑
国津橋

江戸時代初期、淀川( 現 堂島川 )は 中央市場あたりから南西へ 古川と言う名前で流れていたそうです。 国津橋には、安治川を開削した河村瑞賢の碑も建っています。 安治川疎通工事は、貞享元年〜4 年( 1684-1687 )に行なわれた ようで、このとき九条島が2分されて、今の西九条になったと言われます。

完成は元禄 11 年( 1698 )。 このとき新川を、「安治川」に改めた。

源兵衛渡しは 野田界隈からも、九条方面への欠かせない足でした。 子供の頃の自転車コースで、そのころは自動車も運んでいました。 ここのエレベータのおっちゃん(市職員)は、なかなか親切です。 久しぶりに少年時代の自転車コースを走る中年?サイクリストに、写真撮影のサービスまでして頂きました。 源兵衛渡しでは乗り降りのとき、「ありがとう」と言うのが地元の慣わしです。( べつに決まりではありません ) エレベータになっても、渡しの情緒が残る「船着場」 なんです。

===(仕切り線)===

- 安治川随道 -
安治川随道のプレート

稼働時間: 朝 6 時〜夜 10 時( 夏期は夜 11 時まで ) 発着時間は決まっているわけではなく、常時運転です。 道路並とはいきませんが、地元利用者は多いです。 朝夕はラッシュがあって、積み残しも珍しくありません。 歩行者用の階段もありますが、とにかくピストンでエレベータが動いています。 少々なら乗った方が早いと思います。

歴史: この渡しは あまりにも有名で、あちこちで紹介されています。 少しだけ書くと、松島に近く 大阪一繁盛した渡船だったようです。 昭和 19 年にトンネルが完成し、渡船は廃止。 昭和 50 年 自動車の搬送も廃止。 なお、大阪市建設局管轄で府道扱い。 現地(西区側)に「河底とんねる事務所」あり。

この渡しは、地元では大変利用されています。
源兵衛渡し   源兵衛渡し
この写真はクリックで大ですが、70KB あります。
プログレッシブJPEG ですので、読み込みが完了するまで表示されません。

エレベーターが上り下りする 1分ぐらいの間に、次々と人が集まってきます。(左) で、エレベーターが到着すると 中からも たくさんの人が降りてくるので、ちょっとしたラッシュアワー状態です。 乗れる人数に限りがあるので、自然と順番のようなものがあって、われさきに乗り込むのは余程の事情がある人でしょう。

旧 大阪港界隈

大阪開港の地
大阪開港の地の碑
大阪税関
富島出張所構内

明治初頭の大阪港は、中央市場対岸の 川口 でした。 戦前までは 四国行きなどの旅客船も発着していました。 慶応 4 年に分譲された、外国人居留地の跡もあります。( 明治 32 年廃止 神戸に移転 ) 日本でも比較的早く 「文明開化」 が花開いた場所です。 今からすると本当かなァ、と思えますが、港に出入する大型船の航行があったので、橋は架けられなかったようです。 とはいえ、安治川はすぐに浅くなるので、明治 30 年には築港の建設が始まります。

赤レンガ倉庫
富島赤レンガ倉庫

川口運上所の跡
大阪税関発祥の地

かつての大阪港
川口あたりの安治川

中央市場
中央市場

川口には大阪税関の元になった運上所跡があります。 慶応 3 年( 1867 )ここに設置され、大正 9 年( 1920 )に築港に移転するまで 海外からの入管手続きなどを行なっていました。 付近には赤レンガ倉庫も残っています。 川向うは、近代設備に生まれ変わった中央市場( 福島区野田 )です。 中央市場は昭和 6 年の開場です。

大阪税関 富島出張所付近

街の真ん中にいきなり大阪税関・港湾局連名の「指定保税地域です」という看板が立っていたりすると驚きます。 しかも岸壁に近づかないように注意されていますが、岸壁らしきものは 現在はありません。

Script : RYU's® 起稿 2001/08/05
撮影 2001/07/30

追加にあたって
このページを書き始めて、どんどん観光案内みたいになってしまうので、途中でやめていました。 最後に参考リンクを載せたのは、そんな理由です。 デートコース というページもあるので、単なる史跡案内を 2ページも作る必要がないと思ったのですが… 気を取り直して継続します。 少し違った視点で書ければいいなぁ。

旧 大阪港界隈 その2

川口居留地跡

外国人居留地の跡です。 慶応 4 年(1868)に売り出すやいなや、1日で売り切れたそうです。 当時の神戸居留地の 100 坪当たりの価格が 265 両だったのに、川口は 354 両もしたそうです。 隣の梅本町などの雑居地にも溢れるぐらいだったと書かれています。 居留地内は治外法権で警察・消防などがあり、洋館が立ち並ぶ外国のような場所でした。 明治 6 年にできた安治川橋(人力で旋回する橋)が、外国人には人気だったようです。 これは明治 18 年に 洪水のため意図的に破壊されて、のち富島の渡しになります。

川口基督教会

ご存知の川口基督教会です。 居留地に建てられました。 創建は明治 14 年(1881)頃のようですが、現在の建物は大正 9 年(1920)に再建されたものです。 それも阪神大震災のとき大きなダメージを受け、取り壊される運命にありました。 しかし地元の強い要請とカンパで 約 3 億円を集めて修復されたものです。 それだけに、日曜日ともなると多くの人々が礼拝に訪れています。 この教会は観光施設ではありません。 もちろん信仰の場所ですが、地元の人々の集会所的な役割を 現在も果たしています。

以前は壁に蔦(つた)が這っていて、雰囲気のある教会でした。 JR 福島駅前の交番のお巡りさんが、近所に住んでおられたそうですが、「半潰れになってたで」と言われていました。 設計図が残っていないために、修復は人海戦術と コンピューター解析で行なわれたそうです。

合同庁舎(福島区)の堂島川対岸に建つ学校跡の碑
府師範学校跡 前の合同庁舎

宣教師によって多くの学校も設立されました。 川口居留地からは照暗女学校( 現 平安女学院 )、永生女学校( 現 プ−ル学院 )、信愛女学校( 現 大阪信愛女学院)、ウヰルミナ女学校( 現 大阪女学院 )などが、また付近では梅花女学校( 現 梅花学園 )や桃山学院、英和学舎( 現 立教大学 )があるそうです。

女学校が多いのは、当時 女子教育が遅れている現状を憂慮して建てられたものです。 私の出身校の港高校も創立時は女学校で、明治 44 年 江之子島近くの江戸堀に創られました。 また現在の大手前高校も女学校で、明治 19 年 府師範学校から分かれましたが、場所は中之島にありました。 この地域から少し離れますが、関西大学は旧制大学に昇格した明治時代 福島区の聖天さんの近くでした。

古い建物

川口基督教会の前にある古いビルヂングです。 おそらく大正期に建てられたもののようです。 教会の人に聞いてみましたが、いつ頃できたのかは分かりませんでした。 川口基督教会の前には、大阪で初めての「カフェ」があったと言われています。( 明治 44 年 ) 店の名前にカフェと付けた最初だったようですが、店名はキサラギといったそうです。

古い建物

古い建物

これはかつての大阪府庁跡地の横に現在もある住宅です。 まるで遊園地の家のようです。 近所の人に聞いたところ、個人の住宅だそうです。 特に文化財というのではないそうですが、住まわれている方の愛情が感じられます。 建築時期は分かりませんが、昔は神戸のようにオシャレな街だったんですね。

四川合流 〜 川が流れるように 〜

- 端建蔵橋 -
端建蔵橋

四川合流 という言葉はありません。 私が勝手に付けた地域名です。 福島区と西区を結ぶ船津橋、端建蔵橋(はたてくらばし)と昭和橋が架かる地域に 川は 4 本つながっています。 堂島川、土佐堀川、木津川 そして安治川です。

淀川の上流には 三川合流(さんせんごうりゅう) と呼ばれる地域があります。 琵琶湖から流れ来る宇治川に、桂川と木津川が合流する地点です。 歴史的にも交通の要衝であり、文化の交差点でした。 自然地形を背景とする文化の合流点を 三川合流とするなら、淀川下流部の四川合流は人が作った国際文化の交差点です。 この地域は大阪で最も早く 近代化が開花した土地です。

- 川口電信局跡 -
川口電信局跡

江戸時代末期から明治初頭にかけて、大阪港が開港し外国人居留地が分譲され、税関や電信の発祥の地となりました。 江之子島には廃藩置県後 大阪府庁が置かれます。 しかし、物流の起点であった大阪港が築港に移されると、中心的位置は徐々に後退していきます。 欧米人の居留地は、中国人をはじめとするアジア人の居住地域に変わりました。 昭和 20 年 3 月 13 日の大阪大空襲で焼野原になり、戦後のこの地域は倉庫が立ち並ぶようになりました。 川にはポンポン船が行き交うという、情緒あふれる(?)下町になりました。

現在の住友倉庫
現在の住友倉庫

史跡の紹介よりも

夕暮れの安治川
夕暮れの安治川

昭和 30 年代、日本はまだ貧しい国でした。 子供には政治のことは分かりませんが、貧富の差がはっきりしていたことだけは覚えています。 卑屈になることはありませんでした。 福島区の子供達は、ほとんど下町の子供だったからです。 そういう 30 年代初頭の四川合流の風景が 実に上手く描かれているのが「泥の河」です。 有名なので、作者や作品については触れません。 ただ 映画で信ちゃんが橋の上から叫ぶラストシーンは、私たち福島区に住む、いや この地域に関わりを持ったことのある 30 年代を知る人は、胸が打たれるはずです。 悲しい訳ではないのですが、自然に涙が溢れます。

敢えて言えば哀しい物語です。 でも実体験としての悲しさはありません。 川が流れるように歴史は動いていきます。 少年時代の「情景」の一つとして、誰もが持っている想い出のホロ苦さと言った方が良いかも知れません。 区内にあった堀割とその周辺の風景は、ここ 船津橋近辺を描いた「泥の河」に集約できると思います。 史跡を案内するより、この作品を見て頂くのが一番早い紹介だろうと思っています。

WEB サイトで

ちょっと余談

天満宮おみこし上陸地

川口・江之子島は堂島川の終点で木津川の起点でもあります。 木津川の源流は三重県になるそうですが淀川に合流します。(三川合流) 遥かに下って、ここでまた分かれて大阪港へそそいでいるようです。 川の詳しいことは分かりませんが、ここは天神さんの御祭の船の終点でもありました。 天満宮の天神祭りの船は、堂島川を下り福島天満宮の横を通ってやってきました。 昭和 40 年代頃までですが。

この上流は、デートコースをご覧下さい。


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FINE

Script : RYU's® 2001/10/28
追補 2002/02/09

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